ワンオペ育児の孤独
『子育て=孤育て』『ワンオペ育児』という言葉を目にするようになって久しいこの日本で、いま、抵抗する術を持たない弱くて幼い命が、毎日のようにむごたらしく失われています。
ママに殺された子。パパに殺された子。ママの男に殺された子。その他大人たちから寄ってたかって殺された子。
『こんなちっちゃなかわいい子に、よくもそんなむごいことを』とか
『いたかったろう、くるしかったろう、ひもじかったろう、暑かった(熱かった)ろう』とかいう、人間ならごく自然と抱くはずであろう感情は、もはや通用しないのか。
最近そうした痛ましい事件をニュースで見聞きしても、”あぁまたか“と、もはや驚くことができないほどに、毎日毎日、人が自然じゃない死に方で死んでいる。
親に殺される子ども。我が子に殺される親。
国に殺される子ども達。そして自ら命を絶つ人たち。
子育てとは元来(つらい事も山ほどあれど)、楽しく快く幸せをもたらしてくれるものじゃなかったのか?
偉い人たちがどれほど耳ざわりのよい「少子化対策」を叫ぼうが、それこそ異次元に聞こえてくるほどに、それほどに子育てという、もとは愛にあふれた営みが、ひとりぼっちすぎる。
『何で私だけ』って、いつも思っていた。わたしも。
何で私だけが、「ママ、ママ」と四六時中まとわりつかれ、乳を搾り取られ、まともに眠る時間さえ与えられないのか。
何で私だけが、ほんのちょっと外に出ることにもいちいち嫌味を言われるのか。
何で私だけが、いつも我慢しているのか。
何で私だけが、ぜんぶあきらめないといけないのか。
何でそんな切なる想いをちょっと口に出してみることさえ、
「母親失格」=「女性失格」=「人間失格」だと、烙印を押されてしまうことなのか?
今こそみんなで、孤育てにブチ切れよう。
ある日、ブチ切れて、そういう烙印(レッテル)はきっぱりゴミ箱に捨てた。
「母親失格」=「女性失格」=「人間失格」?
自分に烙印(レッテル)を貼っているのは、ほかならぬ私自身だと、気づいたから。
世間基準の「良い母親(&良い子)」?「ステキな女性」?そんなもん、不合格でいいや。
「平均台」を落っこちてみたら、そこはただの、ひろびろとした大地だった。
時を同じくして、娘を「親としてしつける」発想も、やめた。
「子どもの意志を尊重する」というと聞こえはいいが、我が家の事情につき否応なしに、娘とふたり助け合って生きていかねばならなくなったからだ。
時は流れ、いま娘は11歳。子どもというより、社員ふたりの『(有限会社ならぬ)可能性無限会社』の共同経営者の感覚だ。
ビジネスパートナーを尊重するように、ひとりの人格として尊重しないと、屋台骨がたちゆかない。
それぐらいに、私はだらしのない母親だ。
共同経営者なら、信じてまかせるだけ。
…というわけで小学6年生、学校は行かねど、お昼の焼きそばは自分で作れるようになりました。
(※子どもにひとりでガスの火を使わせて大丈夫か?という問題は、お子さんの年齢・性格・家庭の方針等によって様々と思われます。あくまでも我が家の場合に限ってですが、ご心配には、あえて「大丈夫ですっ!!」と胸をはっておこたえしています。)
子どもは大人が思うより頼もしい。
というか我が家の場合、母ちゃんの方がよほど心配、なのです(先日も煮物の火をつけたまま居眠りして、娘におこられました(~_~;))
反面教師から、人はより良く学ぶ…真なり。