小説『国宝(吉田 修一著)』。2021年に第1刷が発行されてから累計発行部数は200万部を超え、吉沢 亮/横浜 流星主演の映画版は興行収入200億円を超える快挙を成し遂げました(2026年2月)。
本ブログでは、
・ 小説版のあらすじについて簡単に、引用をまじえながら、綴っていこうと思います。
上 青春篇
第一章 料亭花丸の場
主人公 立花喜久雄(吉沢 亮)の父権五郎が率いる立花組の新年会の場面が華やかに描かれます。
普段は腹巻にジャンパー姿の組員たちもこの日ばかりは背広姿。年末に近所の床屋で刈らせた頭もすがすがしく、その横ではフランスの女優のような化粧に、髪を高く結い上げた女房たちが、あちらこちらに顔を向け、年賀の挨拶に忙しくしております。
この新年会で親友の徳次とともに、歌舞伎の舞踊を披露した喜久雄と、来賓としてその場に居合わせた二代目花井 半二郎(渡辺 謙)。
こりゃ、見事な墨染でんなあ。こんな達者な芸妓さんが、長崎にはおりますねんなあ」
思わず呟いた半二郎に、
「いや、あれ、芸妓じゃのうて、立花親分とこの、中学生の一人息子ですたい」
舞を終え、汗みどろの喜久雄と徳次が風呂に飛び込むシーンでは、極寒の雪と湯気のたちこめる風呂との対比、若い二人の肉体からほとばしる汗が躍動感たっぷりに描かれます。
「おー、さぶさぶ」(中略)
湯船から出るのは寒いので、喜久雄が横着してワセリンを塗りたくった顔を突き出しますと、徳次が湯桶でじゃぶじゃぶと湯をかけてくれ、白粉に濁った湯がタイルを流れて排水口に吸い込まれます。
新年会の華やぎは敵対する宮地組の襲撃を受け、阿鼻叫喚の様相を呈します。
人間だけでなく、まさに徳利や小皿までが乱闘に加わっているような有様で、畳のうえではおせち料理の伊達巻や黒豆が踏みつぶされ、盆にこぼれた酒に、飛び散った血が滲んでおります。
この章ラストで、喜久雄の父権五郎は凶弾に倒れ、命を落とします。
第二章 喜久雄の錆刀
恋人の春江(高畑 充希)の家で大晦日を過ごす喜久雄の元に、鑑別所を脱走した徳次がやってきて、喜久雄が不甲斐ないと嘆きます。
「坊ちゃん・・・、やっぱりこのままじゃ、あまりにも情けなか。親分も泣きなさる。一人息子が親の敵討ちも忘れて、女の家でこうやって遊び惚けとるなんて・・・」
人生には勝つときもあれば、負けるときもございます。それは十五の喜久雄にとて分かっております。ただ、自分の父親がその人生の最後を負けで終わるなど、到底、息子には我慢ならないことなのでございます。
喜久雄の通う学校に名士として訪れた、宮地組の会長にドスを持って襲いかかった喜久雄でしたが…。
第三章 大阪初段
事件は大人たちの話し合いで穏便に片づけられたのですが「立花の息子は、すぐに長崎から追い払うこと」と条件をつけられ、新年会で出逢った歌舞伎役者、花井半二郎の大阪の家へ徳次とともに世話になることとなった喜久雄。女将の幸子(寺島しのぶ)、手代の源吉、女中頭のお勢たちにあたたかく迎えられます。そしてのちにかけがえのない存在となる俊介(横浜 流星)との出逢い。初めは喧嘩腰だった俊介でしたが…。
俊介は不機嫌そうに席を立ちますと、「この丼、片づけといてな」と、喜久雄の肩をポンと叩いて出ていこうといたします。そこでやっと我に返った徳次が、「おうおう、片づけとけ?お前、誰にもの言いようか分かっとるんか!」と、その胸ぐらを掴みます。こちらの俊介、見かけによらず肝が据わっておりまして、「誰にて、お前らにじゃ!ボケ!」(中略)ただ、そこで動いたのが幸子でして、「あー、邪魔くさい。どうせ、アンタら、すぐに仲良うなるんやさかい。いらんわ、そんな段取り。でもまあ、しゃーない。喧嘩するんやったら、今日明日でさっさと終わらしといて」
半二郎の前もっての計らいで、この日俊介の義太夫の稽古を見学した喜久雄は、みるみる歌舞伎の世界に魅せられていきます。
第四章 大阪二段目
喜久雄を追って恋人の春江が上阪してきます。
今では自転車の二人乗りをするほどにうちとけた喜久雄と俊介。
半二郎は喜久雄を「部屋子」(幹部俳優のもと歌舞伎の全てをみっちりと仕込まれ、素人の子でも見込みさえあれば、将来大きな役がつく可能性があり、幹部俳優と同格の扱いを受ける)にする旨、喜久雄の育ての母マツ(宮澤エマ)に手紙を送ると、夫亡き今困窮をきわめる中でも、喜久雄への仕送りは欠かさなかったマツは、質屋に頭を下げて借り出してきた正絹の京友禅姿で、大阪の我が子の元へ駆けつけます。こうした大人たちの無言の庇護はのちに喜久雄を「生来の芸品がある」と称される役者へと育てていくのです。
俊介の手引きで、祇園の茶屋遊びに足を踏み入れた喜久雄は、舞妓の市駒(見上 愛)から「うちの芸妓人生、喜久雄さんに賭けるわ」と言われ、この市駒と一緒にいると、自分が一回りも二回りも大きくなったように思えてきたのでした。
半二郎に連れられ、名優 小野川万菊(田中 泯)に挨拶をした喜久雄。万菊から告げられます。
「ほんと、きれいなお顔だこと…」「でも、あれですよ、役者になるんだったら、そのお顔は邪魔も邪魔。いつか、そのお顔に自分が食われちまいますからね」
恐怖を感じたまま、万菊演じる『隅田川』の『班女の前』を観た喜久雄は、その怪奇な世界に引きずり込まれ、「こんなもん、ただの化け物やで」と逃れるように笑い飛ばしてみせたところに、俊介は「たしかに化け物や。せやけど、美しい化け物やで」と応えるのでした。
第五章 スタア誕生
半二郎が関西歌舞伎復興のため毎年行う地方巡業へ俊介らと向かった先で、興行会社「三友」の豪放磊落な梅木社長と出逢います。
歌舞伎に冷ややかな視線を送る、梅木社長の部下竹野は「歌舞伎なんて、ただの世襲だろ?今は一緒に並べてもらってても、最後に悔しい思いして人生終わるのアンタだぞ」と憎まれ口をたたき、喜久雄と大喧嘩の大立ち回りを演じます。
そんな中長崎へ里帰りした喜久雄は、実家の屋敷も抵当に取られ、母マツが女中として働く姿を目の当たりにします。マツの胸中を慮り、慰めの言葉をかけるかわりに、今度、南座で主役として俊介と「二人道成寺」を踊ることに決まった旨を、母に伝える喜久雄でした。
喜久雄と俊介の「二人道成寺」は大好評を博し、とりわけ若い女性ファンを魅了し、当日券を求める長蛇の列は日に日に長くなっていきます。
第六章 曽根崎の森の道行
一方、(喜久雄の長崎時代からの親友の)徳次は悪友の弁天とともに、うまい儲け口を見つけたと、北海道へ渡っていたが、ヤクザまがいの悪徳手配師にひっかかり、劣悪な労働環境に堪えかね、わずかひと月で逃げ出して、大阪へ舞い戻っていました。西成の労働福祉センターへ訴えようと駆け込んだ矢先、幸運にもドキュメンタリー映画の撮影と出くわし、涙と怒りをまじえての陳情ぶりが、そのままカメラに収められたのをきっかけに、清田誠監督から、「次回作の主演を」とのオファーがかかります。その作品がキネマ旬報文化映画ベスト・テンの第六位に入ったのをきっかけに、花井半二郎の口利きで、「三友」大部屋俳優の一人として正式に雇い入れられたのです。
そんなある日、『曾根崎心中』公演を控えた半二郎が交通事故にあい、急遽代役が必要となります。喜久雄をはじめ周囲から、代役は血筋のものしかありえないであろうと説かれ、俊介は心の準備を固めます。
しかし、半二郎直々の指名で代役に選ばれたのは~世襲ではなく実力~、喜久雄でした。
「まあ、しゃーないわ。これが誰か他のやつの評価やったら、『アホか。どこに目ついとんねん!』て、文句のひとつも言うんやけど、『実の息子より部屋子のほうが芸が上手い』言うのが、あの天下の二代目花井半二郎なら、もう諦めるしかないわ」
「とにかく丹波屋の一大事。いや、関西歌舞伎の一大事や。喜久ちゃんがちゃんと代役勤まるよう、俺にできることはなんでもするしな」
「俺な、今、一番欲しいの、俊ぼんの血ぃやわ。俊ぼんの血ぃコップに入れてガブガブ飲みたいわ」
喜久雄も俊介も外野の声など気にする余裕もなく、ただ必死に勤めあげ、千穐楽を迎えた翌朝、
父上様 探さないで下さい 俊介
置手紙を一通残し、俊介は出奔してしまったのです。
そしてともに姿を消したのは、喜久雄の恋人であったはずの、春江なのでした。
第七章 出世魚
冒頭で喜久雄は、徳次と荒風関、女優の赤城洋子とともに麻雀に興じます。
かつての爆発的な人気は一過性のものだったと認めざるを得ない日々、半二郎の勧めで映画界に進出するも、今一つやる気を見出せない喜久雄です。
芸妓市駒との仲も続き、彼女は喜久雄の子を宿します。俊介の母幸子は、市駒の面倒を看ると買って出て、産褥期が明けるまで、大阪の自宅に同居させて世話をしたのです。
男なんてどいつもこいつも甲斐性なしで意気地なしのアホばっかりや。でもな、生まれてくる子には、何の罪もないねん。
かねてより糖尿から軽度の緑内障と診断されていた半二郎だったが、多忙を極める中放置していたことがたたって、気づいたときには、すでにどうにもならない状態でした。以降、喜久雄は半二郎の手をひき「一段降りて、草履です」「旦那はん、最後、小さく一段上がって鏡前です。よろしか?」と舞台に上がる半二郎をサポートするようになります。そんな中舞台にあがる直前、半二郎が喜久雄に囁きかけます。
「なあ、喜久雄。いろいろ考えたんやけどな。まだこうやってぼんやりとでも目が見えとるうちに、わしもな、もう一花咲かせたい思うとるんや。…襲名のことやけどな。わしは『花井白虎』になる。そやから、お前も『花井半二郎』継いだらええ」
「そやかて、俊ぼんが…」
半二郎の妻、幸子は喜久雄に「辞退してえな」と迫ります。
「…うち、ほんまにほんまに腹立ってんねん。分かるやろ?『半二郎』いう名前は、俊介にとって最後の砦や。たしかに今は行方知れずやけども、この名前があるかないかで、何もかもが全部違ってくんねん。その最後の砦まで、あの人はアンタにくれてやる言うてる。…役者なんて、ほんま、意地汚い生物やわ。うちの旦那さん、もうあんな体やで。それやのに、我が子の人生を踏み潰しても『花井白虎』になって舞台に立ちたいんやと…」
それでも最後には「もう腹くくるわ。うちは意地汚い役者の女房(で、母親で、お師匠はんや)。こうなったら、もうどんな泥水でも飲んだるわ。」と決意を固める幸子でした。
そうして迎えた大阪中座での襲名披露興行初日。
大喝采の中、緊張気味な喜久雄の挨拶が終わったそのとき、やっと面を上げた白虎は、その口から大量の潜血を吐いたのです。
第八章 風狂無頼
白虎には糖尿病とすい臓がんの併発による余命半年、という診断が下されます。
また「三友」の梅木社長は子会社に左遷が決まり、親がないのは首がないのも同じと言われるこの歌舞伎界で、白虎と梅木の後ろ盾を失う不安を抱える喜久雄を慮って、梅木社長が後見を請い頭を下げたのは、東京・駿河屋の姉川鶴若でした。
この鶴若の無視・陰湿な叱責・いやがらせ、挙句一年にも及ぶ地方巡業を突然言い渡され、すでに決まっていた役も鶴若一門の若手に差し替えられるなど、長きにわたり喜久雄を苦しめますが、病床の白虎には「みなさん、ようしてくれますわ。せっかくやから、修行もかねて、地方巡業もやらせてもらおう思うてますねん」と愚痴一つこぼす喜久雄ではありません。
ですが、白虎は何もかもわかっていたのか、
どんなことがあっても、おまえは芸で勝負するんや。ええか?どんなに悔しい思いしても芸で勝負や。ほんまもんの芸は刀や鉄砲より強いねん。おまえはおまえの芸で、いつか仇とったるんや。ええか?約束できるか?
そんな折も折、病院からの電話のベルに幸子ともども駆けつけた喜久雄の耳に届いたのは、「俊ぼーん!俊ぼーん!」と我が子俊介を呼ぶ死期迫った白虎の声だったのでした。
白虎亡きあとに明らかになった、1億2千万相当の借金のかたに、大阪の自宅を明け渡してほしい、と「三友」社員から告げられた喜久雄は、「俺ら、どんだけ旦那に世話になった思うてんねん。世話になった人に借金があるんやったら、それは俺らの借金やで」と借金を相続する決意を固め、「よっしゃ。ほんなら、坊ちゃんの借金はこの徳次の借金や。何があっても、助けたるわ。」と徳次も胸を叩くのでした。
その足で、徳次はまっすぐに京都の市駒を訪ね、喜久雄との一粒種の娘の綾乃の、幼稚園のお遊戯会を観に行きます。これまでも多忙を極める喜久雄に代わって誕生日にはプレゼントを届けたりしていたのでした。
第九章 伽羅枕
姉川鶴若による喜久雄への冷たい仕打ちは依然続いており、このたび『伽羅先代萩』で与えられたのは、台詞もなく本来なら大部屋役者がやる腰元の一人でした。巡業先では宝石の展示即売会で有閑マダムたちのお相手、そして「今年いっぱい歌舞伎座などの大舞台への出演が一切ない」と三友からの通告…。気が付けば、三代目花井半二郎の名が泣くような端役ばかりをやらされる日々がつづいております。
そんな中、今ではすっかりお茶の間の人気者となった徳次の悪友の弁天が、旧知の清田誠監督の新作「太陽のカラヴァッジョ」に出演することと決まり、この作品に登場する日本兵の中に歌舞伎の女形がいるそうで、出演を頼み込んでみてはどうか、と徳次に相談してきたのです。「映画はもうええわ」と乗り気でない喜久雄でしたが、後日清田監督に逢ったところ、「歌舞伎役者って、何やらせても演技が臭いんだよね」という痛烈なひと言でした。
灼熱の沖縄の地で行われたロケでの清田監督の喜久雄への罵詈雑言は苛烈を極めます。
ある意味のスケープゴート~生贄~として、なよなよした姿を見せる喜久雄が、さらに男たちを苛立たせ、なんの落ち度もないにも拘らず、監督のもとへ謝罪に行かねば撮影が再開しない状況下、力を振り絞って喜久雄が監督の元へ向かったのは、とりあえずここまで必死に頑張ってきた映画を少しでも良いものにしたいという素直な気持ちにほかならないものでした。
なのに「俺にじゃなくて、皆さんに土下座して謝れよ!いつもいつも臭い芝居して、撮影を遅らせて、みなさんの睡眠時間を削って、本当に申し訳ございませんでしたって!」と罵倒する監督の理不尽さに対してではなく、受けると決めた仕事に、ちゃんと応えられない自分への悔しさが玉の汗となって地面に滴り落ちる喜久雄なのでした。(この2つのエピソードに喜久雄の並外れたプロ意識と人としての誠実さが胸が痛くなる程伝わってきます。)
この映画はカンヌ映画祭で最高賞を受賞し、Mr.hanjiro hanaiの演技も高く評価されますが、お祝いムードに一人背を向け、心身の調子を崩した喜久雄は入院し、退院後はしばらく市駒の元で暮らしたいと希望するのでした。
第十章 怪猫
かつて喜久雄と大喧嘩を繰り広げた三友の竹野は、テレビ番組の企画ネタ探しに、鳥取の三朝温泉へ足を運びます。場末のストリップ小屋で受け取ったチラシに「有馬の猫騒動 本格芝居で見せる化け猫伝説」。とは言え、始まったのは目も当てられぬ田舎芝居で、落胆した次の瞬間、ひとりの役者に彼のスルメをかじろうとした手が、ふと止まります。その役者が出てきた瞬間に舞台の空気がピンと張りつめ、なかには無意識に身を乗り出す者もいます。そして客席をギロリと睨みまわした見事な化け猫への早変わり。一瞬客席から音が消え、次に起こったのは湧き上がるような忘我の喝采…続いて演目が変わった後も、客のほとんどはまださっきの化け猫に魂を抜かれたままです。「これはテレビの素人番組に出すような下等なものじゃない」直感の赴くまま、楽屋を訪ねた竹野が目にしたものは…。
喜久雄は京都の市駒の元で毎日綾乃と遊び、海水浴を楽しんでいるうちに、元気を取り戻し、若かりし頃、俊介とともに稽古にひたすら打ち込んでいた初心をとりもどします。「俺な、やっぱり歌舞伎が好きでたまらんねん」
場末の見世物小屋で俊介を発見した竹野は、小野川万菊に俊介の芸を見てもらうべく、別府へ万菊を伴います。
「このあたしが丹波屋のお兄さんに代わって、まずは礼を言わせてもらいますよ。ほんとにあなた、生きててくれてありがとう。」
「今の舞台、しっかり見せてもらいましたよ。あなた、歌舞伎が憎くて憎くてしかたないんでしょ」
「でも、それでいいの。それでもやるの。それでも毎日舞台に立つのがあたしたち役者なんでしょうよ」
下 花道篇
第十一章 惡の華
歌舞伎界に復帰した俊介は小野川万菊との共演を果たし、妻 春江も丹波屋の嫁として、姑の幸子から厳しい指導をうける毎日です。
一方で喜久雄は、隠し子騒動をはじめ、本流の俊介を追い落とした男との、世間からのバッシングにさらされます。
俊介はNHKのトーク番組に妻 春江、一粒種の一豊とともに出演し好評を博します。
そんな中で吾妻千五郎の次女、彰子(森 七菜)は父親の猛反対を押し切り、喜久雄の妻になります。
それもこれも吾妻千五郎からの後ろ盾ほしさ。愛してはいない。しかし歌舞伎のためならば、彰子を愛せる。
第十二章 反魂香
俊介の放浪時代の苦闘の日々が語られます。
第十三章 Sagi Musume
喜久雄はパリ・オペラ座での公演を果たします。
中学生になった娘の綾乃が非行に走り、徳次は綾乃を救い出すため奔走します。
春江が綾乃を預かることを申し出、それをきっかけに、綾乃は立ち直っていきます。
第十四章 泡の場
喜久雄と俊介は『源氏物語』を上演し大成功を収めます。
光源氏と空蝉などの女たちを、半二郎と半弥という当代人気の女形二人が日替わりで演じるという趣向は、ひとまず成功を収めたと言える。(中略)まずは三代目半二郎の光源氏だが、この圧倒的な美しさは天賦の才を超えて、何かが乗り移ったとしか言いようがない。とにかく半二郎の光源氏からは、その色香が滲み出てくるのである。ただ、では半弥が劣るかと言えば、まったくそうではなく、こちらの光君からは、性の匂い、青年の色欲が匂い立つようだったのである。(中略)また、半二郎の演じる女たちは、明石の君であっても高貴そのものであり、逆に半弥が演じれば、葵の上からもまた女の業が滲み出た。とにもかくにも私は認めなければならない。今から二十年近くも前,山陰の芝居小屋で私が初めて見た二人の少年たちは、それぞれの仕方で必死に歌舞伎に食らいつき、今やその歌舞伎にとり憑かれてしまった、と。
第十五章 韃靼の夢
来年秋に迫った俊介と一豊の二代同時襲名を盛り上げるために、ほぼ一年丹波屋のプライベートに密着する、ドキュメント番組が企画されます。
徳次は、自分の人生にもう一花咲かせたいと、中国大陸へ渡ります。
一豊は、大学進学の決意を俊介に語ります。
綾乃は大学へ進み、出版社に就職内定が決まります。
喜久雄は、若い頃に親交のあった荒風関の息子が力士になっている事を知り、懐かしさにひたります。
そして迎えた俊介(五代目花井白虎)と一豊(二代目花井半弥)の襲名披露公演の挨拶で、俊介は出奔時代に亡くした長男豊生に触れ、滂沱の涙を流すのでした。
「あの子に、豊生に、ここにいてほしい。ですからどうか初日の今日だけは、私と一豊、そして長男、豊生の三人で、この襲名披露を勤めさせて頂きたいのでございます」
第十六章 巨星堕つ
六代目小野川万菊翁が九十三歳の大往生を遂げたのは、ドヤ街の安宿でした。
「『ここにゃ美しいもんが一つもないだる。妙に落ち着くんだよ。なんだか、ほっとすんのよ。もういいんだよって、誰かに、やっと言ってもらえたみたいでさ』って」
綾乃は婚約者の大雷関を父喜久雄に紹介し、お腹に宿した新しい命を産むつもりであり、仕事を辞めて「この人を横綱にしてみせる」と告げます。
かねてより足先の血色の悪さが気になる俊介でしたが、『女蜘』上演中に激痛で倒れ、右足の壊死および切断の必要を医師に宣告されます。
綾乃の結婚披露宴には何としても出たいとリハビリに励んだ俊介は、誰の支えもなく義足でしっかりと公の場に姿をあらわし、誰もが彼の復活をイメージしました。
綾乃はその後元気な女の子「喜重」を産み、まさにその日、大雷関の横綱昇進が決まったのです。
俊介が荒れている、との報を受け、駆けつけた喜久雄に告げられたのは「(右足のみならず)左足をも壊死そして切断」という残酷な現実でした。
「喜久ちゃん、もうあかん…。悔しいけど、ここまでや。」
そんなことない。そう言ってやりたいのでございます。ただ、目の前にいるのは、膝から下の両足を失くす舞台役者でございます。(中略)
「俊ぼん、旦那さんはな、最後の最後まで舞台に立ってたよ」
第十七章 五代目花井白虎
両足を失った俊介は、復帰公演に『隅田川』を演りたいと望み、喜久雄に舟人役を引き受けてほしい、と告げます。満身創痍で臨んだ『隅田川』の千穐楽を終え、俊介は貧血による意識障害で救急搬送されますが、その迫真の演技で日本芸術院賞を授与されます。
幸子は、俊介の看病だけでも大変な春江の手をこれ以上わずらわせたくないと、逗子の老人ホームへの入所を決めます。
それからほどなく、俊介緊急入院の報せが喜久雄の元に舞い込みます。
『京鹿子娘道成寺』の舞台に立つ喜久雄は、その後俊介の訃報に触れたのでした。
第十八章 孤城落日 第十九章 錦鯉
喜久雄は舞台以外の芸能活動を一切受けなくなります。しかし、三友やマスコミから一切不平や非難が出なかったのは、喜久雄が現代随一の立女形であるのもさることながら、歌舞伎の舞台でしか見る事の出来ない幻の女形というイメージが、そのまま興行的な成功を引き寄せていたからでもあります。
『女殺油地獄』で喜久雄が満員の客を沸かせていた頃、「人間国宝(重要無形文化財保持者)」の審議がはじまっていました。
第二十章 国宝
一豊と妻の美緒の間に息子ができた、との明るいニュースに丹波屋は湧きます。
愛甲会辻村の娘から連絡をうけた喜久雄は、死の床にある彼を見舞います。そこで辻村から告げられたのは「おまえの親父ば殺したとは、この俺たい。」五十年越しの真実、今の喜久雄を作り上げた真実でした。しかしなぜか喜久雄の目には、徳次の笑顔と料亭花丸で父権五郎が命を落とした阿鼻叫喚が浮かんでくるのでした。
そうして審議の結果、喜久雄は重要無形文化財保持者~人間国宝~として認められたのです。
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「悪人」「怒り」といった過去の吉田 修一作品とは異なる格式の高さ⇒取っつきにくさが感じられるこの「国宝」ですが、読み進めるうちに登場人物それぞれのひたむきさに、いつの間にか吸い込まれるように魅了されてしまいました。
作中、数々の歌舞伎の名作がこと細かくそしてわかりやすく解説されているのも、醍醐味のひとつでしょう。
そして「悪人」「怒り」でも活写された愛の物語…春江は俊介を、市駒と彰子は喜久雄を、一途にひたむきに愛し続けます。彰子と市駒の間に、ありがちな本妻と愛人とのさや当てのようなものは描かれません。また、かつて喜久雄の恋人だった春江が、俊介の妻になったことについて、喜久雄は嫉妬や喪失感などのマイナス感情について一切触れません。俊介だからこそ許せたのか。春江は【放浪生活のあいだ、二人きりのはずなのに、なぜかそこに喜久雄も一緒にいるような妙な感覚があった】とされています。
たとえば、朝風呂へ向かった俊介を旅館の客室で待ちながら、戻ってくるのがなぜか俊介と喜久雄の二人のような、そんな奇妙な感覚で、おそらく同じような感覚が当時俊介にもあったのではないかと春江は思います。
喜久雄と俊介の魂の絆、そして「丹波屋」を守るため、ひいては歌舞伎という大きな「宝」にとり憑かれた男たちのため、幸子から春江(彰子と市駒)、そして喜久雄の娘の綾乃、俊介の息子一豊と嫁の美緒へと脈々と受け継がれていく女たちそれぞれの愛のかたちが壮大なスケールで描かれた一大絵巻といえるでしょう。
