娘のこれまで
2024年の春、娘は小学校を卒業しました。既述の通り娘は幼稚園~小学校低学年時の登園・登校しぶりに始まって、コロナ禍による学校閉鎖を皮切りに3年生の3学期ごろから目立って欠席日数が増え、5年生の頃にはリモート授業や保健室登校・別室登校など色々と組み合わせつつも、家でひとりで過ごすことが圧倒的に多いという、ベテラン(?)不登校児になっていました。
『理想の娘』を押しつけてきた母親(=私)
母親である私は小学校高学年の頃、いじめにあっていました。教室はいわゆる「学級崩壊」状態で、嫌な事は嫌と言えない性格の私は「ガリ勉」「まじめ」とレッテルを貼られるばかりで、心からうちとけてくれるような友達もできない灰色の日々を送っていました。
一方の娘は幸いに、私のそんな融通の利かなさや、つまらない意味での真面目さは受け継がなかったようでした。(私は昔も今も「ぼっち気質」で、たとえば教室で「2人一組になって」とかいう時にあぶれて取り残されるような子だったのですが)彼女は私より格段にコミュ力が高いのか、必ず誰かから「選ばれる子」であり、休み時間はいつも明るいお友達に囲まれている子だと、私は我が子ながらうらやましく思っていました。だからこそ、そんな『学校生活を謳歌しているはず』の娘がなぜ学校に行きたがらなくなったのか、「不登校の原因」が全く思い当たらなかった。
そんなの、ただの甘えやわがままじゃないか。怠けたいだけじゃないか。頭が痛いわけでも、おなかが痛いわけでもないのに。いじめられているわけでもないのに。ずるい。許せない。私はあの頃、どんなにいじめられてつらくても、歯を食いしばって我慢して、休まず学校へ通ったのに。
まさかの家庭崩壊⁉
いっぽう私は、元夫との別居生活が数年間続いていましたが「絶対離婚だけはしない。」頑なにそう思っていました。これは両親から受けた影響が大きいと思います。別に「離婚は悪いことだ」と直接言われたわけではなかったのですが、離婚に対して下記のようなイメージが、骨の髄まで根深く沁み込んでいました。
<離婚とは(それまでの私のイメージ)>
・地獄行き確定の罪
・馬鹿な女のすること
・絶対に後悔する
・路頭に迷う・生きていけない・子どもと一緒に心中するしかない…etc.
なのに、離婚してしまいました。
ひと月もたたずに死にたくなるほど後悔しました。
それから半年もたたずに「何でもっと早くしておかなかったのだろう」と不思議に思いました。
その後も「後悔で死にたくなる⇔とにかく前を向く」を何度もくり返しました。
ひとつ択んだ道が正しかったかは、死ぬときにしかわかりません。
だけどとりあえず今は死んでいないし、おかげさまで娘とふたりで楽しく笑いながら生きています。1点の迷いもなくまっすぐに私を択んででくれた娘とふたり(with猫)で。支えてくれる大切な人たちに助けられつつ。日々感謝しつつ。
離婚も不登校も、不幸じゃない。
自分が大きく道を踏み外したことをきっかけに、それまでかたくなに私を縛りつけてきた数々のルールは崩壊しました。
経済的に逼迫し、ますます働く必要に迫られた事をきっかけに、娘にはもはや“お手伝い”という枠を超えて『家庭経営に参画』してもらわないと生活が立ちゆかなくなったのです。
そしてその事態は、私にとっても娘にとっても人生を好転させました。
それまでの「導き叱り説教し、守ってあげなくてはならない」子どもから、『助け合い信頼し合い、それぞれの人生をともに歩むかけがえのない相棒』として、『家庭という名の【可能性無限会社】の共同経営者』として、何よりかけがえのないひとりの人間として、私の中で変容を遂げた娘はこれまで以上に頼もしくなりました。洗濯機を買い替えたことをきっかけに、自分の着るものは自分で洗うようになりました。「学校に行かない日の昼食は自分で作る」が我が家のルールですが、ネット検索でしらべた娘のマイレシピは随分ぶ厚くなりました。
そうした日々の積み重ねを経て、私の中に長年くすぶっていた娘の将来への不安は、雲散霧消していったのです。
それまで私を縛り付けていた「親とは子供とはこうあるべき」という固定観念は崩れ去ったのです。
心配したところで、なるようにしかならない。
母親である私自身が、失敗と挫折だらけの、お世辞にも立派とは言えない人生によって証明してしまったこの真実は、人生最大の想定外であるとともに嬉しい大誤算でした。
毎日のささやかな暮らしの中の、小さな奇跡と愛すべき人たちに感謝しながら。
転んでも泣いてもいい。いつかきっと、また笑えるから。
今日も奇跡とご一緒に🌸